【3】

 

 カローワトが管制室を訪ねてきたのは、それから二日後のことだった。ドアが開く前からトァスティースにはカローワトの用件が分かっていた。それはちょうど管制室にいたタンザとフェリッサも同じだった。

 

「長官が亡くなられました。今後の処理についてご指示いただければと……」

 

 モニターに表示されている、長官の治療カプセルから送られる信号も、患者の死亡を告げていた。とうとうこの時が来てしまったのだ――トァスティースは意を決して立ち上がった。

 

「カローワト、長官のウイルス汚染度は?」

「ほとんどありません。実は、病自体は乗り越えたようなものだったのです。けれど快復しきれるお歳ではありませんでしたから……」

「なら、念のため防護袋へ入れて、遺体をここへ。最高責任者の移行手続きをしよう」

「待て、トァス。いったいなんの話だ」

 

 タンザが口を挟んだ。フェリッサも訝しげに眉根を寄せている。彼らにはまだ管理者権限の認証方法について話していなかった。タンザたちの立場を察したからこそ、伝えられないままだった。彼らはきっとトァスティースと相反する道を選ぶ。

 

「コロニー全体の権限を握るために、長官の指紋と声紋の認証が必要なんだ。声紋は議事録の録音で突破できそうだけど、指紋は遺体からお借りするしかないだろう」

「違うわ、タンザが言っているのは、何故トァスがそんなことを知っているのかということよ。あなたの役割にはないことだわ」

「コンソールで調べたからだよ。誰かが最高責任者を継ぐべきなのに、やり方が分からなかったから」

「まさかトァス、お前が長官の跡を継ぐつもりなのか」

 

 目を丸くしたタンザたちの後ろから、カローワトがトァスティースを見つめていた。いつかと同じ、強い眼差しで。以前はその目に狼狽えてしまったが、今はトァスティースに勇気を分けてくれているような気がした。

 

「そうだ、俺がなる。でも、ずっとじゃないよ。人間たちの生活が落ち着いたら、誰か相応しい人に席を譲るつもりだ」

「……それは、あなたでなければならないの? 私やタンザでは駄目?」

 

 フェリッサはあくまで優しく問いかけた。彼女はトァスティースが思い詰めて責任者になろうとしていると考えたのだ。しかしトァスティースは、はっきりと首を横に振った。

 

「君たちは……君たちと評議会の幹部たちは、いずれ来る食糧難を解決するためにセーアランタ人を排除しようとしたんだろう。ウイルスを持ったマウスを下層に放ったのも、きっと幹部の手の者だ」

 

 恐らく、評議会の誰かがシェナにペットと偽って、マウス入りのケースを与えたのだろう。彼女は無邪気に大人の言い分を信じ、マウスを外に出してしまった。そして彼女の住んでいた最下層から感染が始まった。

 フェリッサが苛立ちの籠った目でタンザを睨んだ。タンザはトァスティースがシェナを探りだしたせいで、早まってマウスについて話してしまった。計画のすべてを隠し通すのは無理だと踏んで、真実の一部だけは明かすことにしたのだ。そしてマウスとシェナを隠れ蓑にし、評議会そのものからは目を逸らさせようとした。だが、フェリッサはまだ一切を秘密にしておきたかった。近頃の彼らの不和は、その意見の食い違いから来ていたのだろう。

 カローワトは、評議会の狙いを暴く証拠としてマウスの死骸かケースを探していた。揺るがぬ物的証拠をもってトァスティースに真相を伝えようとしていたのだと思う。まだ生きていた主人の秘密に繋がりかねない以上、そうでもしなければ所有物であるアンドロイドは、はぐらかすように言葉を繰ることしかできなかった。

 

「タンザたちは俺が機械の指揮権を得ても、一度たりとも下層の非感染者を保護しようとは提言しなかった。そのままセーアランタ人が全滅しても構わなかったからだ」

 

 与えられたデータを処理していれば良かったトァスティースと違い、タンザやフェリッサは幹部たちの秘書や議論のサポートをしていた。だから二人は、幹部たちが決定したセーアランタ人の排除案も知っていたし、協力していたのだ。

 アンドロイドはあくまで自分より上の者に仕える存在だ。だから評議会の長や方針が変われば、タンザとフェリッサともまた手は取り合えるだろう。しかし今のままの彼らを責任者に据えることはできない。そうすれば、二人は以前の幹部たちの方針に従い続けてしまうからだ。

 

「俺の推測が間違っているなら、マウスの死骸やケースがどこへ行ったのか証明してくれ。君たちや評議会の関係者が隠したのか、それともまったく違う場所にあるのか――」

 

 言うと、フェリッサが腰の後ろに着けていたホルスターから、目にも留まらぬ速さで電磁レーザー銃を抜いた。そして迷わずトァスティースの足元を撃った。もし当たればその部位の回路が停止し、動かなくなっていただろう。まだ牽制だが次はどうだか分からない。

 

「ふぇ、フェリッサ?」

「どちらも私が回収済みよ。死骸をケースに密閉して保管してある」

「もう話してもいいのか、フェリッサ」

「ええ、今さら誤魔化しても仕方がないわ」

 

 トァスティースは硬直しながらも、フェリッサに掴みかかろうとしているカローワトに向けて、ひそかに首を振った。フェリッサたちは幹部の護衛も兼ねて設計された機体だから、武力面ではトァスティースもカローワトも敵わない。

 トァスティースと同じ道を行くと言ってくれたカローワトにだって、評議会の方針を変えることは可能なはずだ。万一でも、ここで二人とも破壊される事態は避けなければ。幸い、トァスティースはカローワトが評議会に反してマウス探しをしていた件を、誰にも話していない。

 

「すべてあなたの言った通りよ、トァス。評議会はセーアランタ人をコロニーから取り除くことで、将来起こり得る問題を遠ざけようとした。私たちはその手助けをしていた」

「何も食糧問題だけではない。お前も我々がハザを去ることになった原因は知っているだろう」

 

 当然知っている。人種対立から始まった世界大戦のせいだ。地上は戦火に焼かれ、地下は魔力素を吸いつくされて枯れた。人が暮らしていける環境ではなくなってしまい、いくつかの国は母星を捨てて宇宙に逃げることにした。

 トァスティースが質問に頷くと、タンザは続けた。

 

「エルメシダのような先進諸国はハザの二の舞にならないよう、国ごとにコロニーを作り分かれた。だがエルメシダ内部は、既に二つに分かれてしまっていた。片方だけを地上に捨て置くのでは出立前に暴動が起こって共倒れするが、両者を船に乗せたままでも遠からず対立が起こる。だから我々は宇宙に出た後、どちらかの民を選ばなければならなかった」

「評議会自ら、彼らの不和を促しておいて?」

「致し方ない、必要な過程だった」

 

 トァスティースから見て至急対処すべき問題は、仮設船を出た後にやってくる食糧難だけだった。それを解決するために、外区では植物資源プラントと水産資源プラントの建造が優先されたのだと思っていた。結局人口減によって問題は解決されてしまったが、その過程であまりにも多くの人間が命を奪われた。

 タンザたちが仕えているのが評議会の幹部だとするならば、トァスティースが仕えているのは評議会の理念だ。すべてのエルセアーデ住民を守り、恒久的な平和に導くという、単純で崇高な理念である。だから彼はやはり、タンザとフェリッサの方針には従えない。トァスティースが二人を睨み返すと、フェリッサは溜め息を吐いた。

 

「トァス、あなたは誰より機械的であるべきだった。そうでなければ、あなたに託された権限は大きすぎる。なのに、そんな目をするようになってしまったのね」

「俺が機械たちを操って、コロニーを支配するとでも?」

「あなたがどんなつもりだろうと、既に支配者であることは確かよ」

 

 フェリッサはそれ以上の反論を許さず、トァスティースの右膝を寸分違わず撃ち抜いた。「トァスティース!」カローワトの悲鳴じみた叫びを聞きながら倒れ込む。這って逃げようとしたが、すぐタンザに取り押さえられてしまった。

 

「タンザ、トァスをどこかに隔離しておいて。私は分解槽の稼働準備をしておく」

「待て、君たちは長官をこのまま葬る気なのか? それじゃあ誰が最高責任者を継ぐんだ」

「責任者は決めない、それこそ人間たちが選んできた道よ。私たちはその選択に従うだけ」

「そんなの、彼らを見捨てるのと同じだ! 外のロボットもスラスターも、問題が起きても誰にも対処できない。管理者権限を手放すなんて、自滅行為だ!」

「だとしても、だ。すべて我々機械が決めることではないんだよ。お前が危うい道を進むと言うなら、その前に長官のご遺体を処分するまで」

 

 彼らは聞く耳を持たなかった。タンザはフェリッサから電磁レーザー銃を借りてトァスティースの両腕を撃つと、右肩に身体を担ぎ上げた。

 

「そうだな……第二巡視艇で構わないか。トァスは巡視艇の操作ができないから、ロックをかければ自力では逃げられまい」

 

 フェリッサに銃を返しながらタンザが言う。そういえば、タンザも以前幹部の一人に付き添って、船外の巡視に行ったことがあった。その時にキーを預かってでもいたのだろう。

 

「ええ、それでいいわ。あとはそうね、カローワト」

 

 フェリッサに急に呼びかけられ、カローワトが身構えた。

 

「長官を分解槽へ運んでくれる? 彼に仕えたあなたの、最後の仕事よ。それが終わったら、評議会の傘下に入るか他の層へ行くか選ぶといいわ」

「……分かりました」

 

 カローワトはちらりとトァスティースを見やった後、身を翻して管制室を出ていった。

 それでいい。今は無為な抵抗をせず、従ってくれればいいのだ。トァスティースが壊されてしまった時のために。

 

 

 

 それからフェリッサは昇降機で最下層へ向かい、タンザは飛行用ハッチにトァスティースを運んだ。そのあいだに、最初にレーザーを受けた右脚は動くようになってきていた。鎮圧用の電磁レーザーを喰らったのは初めてだが、一時的に電気系統を停止させるだけで、しばらくすれば自己メンテナンス機能で復帰できるようだ。

 ハッチに入って二つ目の巡視艇の前で、タンザは足を止めた。そして空いていた左手で、上着のポケットから銀色のカードキーを取り出す。

 彼の両手が塞がった瞬間、トァスティースは両脚を使い全力でタンザの胴を蹴った。たとえ武力では勝らないとしても、トァスティースも内部は金属の塊だ。相応の重量を叩きつけられて、タンザは「ぐ、」と短い呻き声を上げ、担いでいたトァスティースを床に落とした。

 トァスティースはすぐさま起き上がり、タンザを視界に捉える――が、その時にはもう額の正面に拳銃を突きつけられていた。フェリッサの銃よりずっと短射程の電磁レーザー銃だ。タンザの手に丸ごと収まってしまいそうなほど小さい。

 

「き、君も持っていたんだな」

「切り札は懐に隠しておくものだ」

 

 さすがにトァスティースは動けなかった。頭部には人間の脳と同様、大事な思考回路が詰まっている。ここを撃たれたら完全に機能停止してしまうし、復帰したとしても何かしらの不具合が残る可能性がある。

 

「今日は驚かされてばかりだよ、トァス。いつからそんなに反抗的になった? お前は機械らしい素直な奴だったのに」

「さぁ、今までは仕事漬けで情緒の育ちが遅かったんだろう。もっと積極的に気晴らしはしないといけなかったな」

「お前はお前のままで良かったのに、残念なことだ」

 

 タンザの背後でぷしゅ、と場違いな軽い音がして、巡視艇のドアが開いた。トァスティースは首根っこから掴み上げられ、船内に放り込まれる。内部は暗い、明かりもついていなければ窓も小さいせいだ。カローワトと乗った巡視艇とは作りが違い、開放感に欠けていた。

 振り返れば開いたドアの向こうに立つタンザが、銀色のカードを翳そうとしている。あと三秒と経たずに、ドアはロックされてしまうだろう。そうなれば彼が言った通り、トァスティースには自力で脱出する術はない。違反覚悟で操作盤に触れたとしても、次に捕まった時に記憶初期化の処罰を受けることになる。

 それは嫌だった。さして稼働年月の長くないトァスティースにだって、忘れたくないことはあった。仕事中にタンザとフェリッサがかけてくれた労いの言葉、談笑とともに吐き出されたヴェルリの煙草の香り。それに、自分に真っすぐ向けられたカローワトの青い瞳――

 しかし大人しくしていても、どれも失われてしまうものだった。このままではタンザたちとは道を違えたままだろう。ヴェルリの信頼には応えられないだろう。カローワトは二度とトァスティースに未来を託さないだろう。

 崖から突き落とされるのをただ待つかのように、トァスティースは銀色のカードが光を反射しながら下りていくのを見ていた。異様に長く感じられた時間の後、あっけなくキーはドアに触れた。

 しかし、いつまでも巡視艇は沈黙している。ドアは微動だにしない。

 

「……何故、閉じない? 開ける時は反応したのに」

 

 タンザは何度もキーを当て直す。だが一向にドアは閉まらなかった。トァスティースの両腕は機能が回復しつつあった。タンザはまだ気づいていない、撃たれる覚悟でもう一度逃走を図るべきだろうか――

 その時、ハッチの天井にあるスピーカーから声が響いた。フェリッサが災害用の緊急回線を使い、慌てた様子でタンザに呼びかけていた。

 

「タンザ、聞いていたら至急管制室に戻って。私もすぐ戻る。とにかく急いで、何か起きて――」

 

 フェリッサの声は無理やり遮断されたかのように途切れた。直後、タンザは任務の優先順位を変更した。トァスティースに背を向け、弾かれたようにハッチから走って出ていったのだ。

 トァスティースもその後を追う。今のうちに身を隠すべきかと悩んだが、管制室の異常は放っておけなかった。多少居心地が悪くなろうとも、そこはトァスティースにとって、大事な居場所のひとつだった。

 

 

 

 管制室に入るなり、トァスティースは懐かしい声を聞いた。やや高めでしゃがれ気味の声質に、ゆっくりとした喋り方。「エルセアーデ評議会長官、バルダ・ビーネ……」という静かな名乗り。今は亡き長官の話し声そのものだ。

 それは録音ではなかった。声が出ていたのは、コンソールの前に座り込んだカローワトの喉からだ。名乗りが終わると、モニターに認証成功を示す文字が現れた。声紋認証の前に指紋認証があったはずだが、恐らくカローワトは抱きかかえている長官の遺体を使い、突破したのだろう。

 

「何をしている、カローワト!」

 

 タンザがカローワトに向けて銃を構えた。そのあたりでフェリッサも管制室に辿り着いた。

 カローワトは長官を丁重に床へ横たえた。そして悠然と立ち上がると、入口に立つトァスティースら三人に振り返った。「あー、あー」と声の調子を整える。二度目の「あー」の時には、すっかり元のカローワトの声だった。

 

「管理者権限をトァスティースに譲渡しました。今のは譲渡を承諾する最後の認証です」

「ご遺体を使ってか? 冒涜が過ぎるぞ」

「長官の声はどうやったんだ? 君は録音を使えと言っていたのに……」

「私も彼の音声を認識して働くのです。主人を間違えないために、精巧な音声データを保存してありました。それを使って再現したまでです」

 

 つまり、長官の傍に居たカローワトならいつでも認証を突破できたが、あえて切り札として隠していたわけだ。トァスティースが最高責任者を継ぐ意思を持つまで、勝手に権限を移すつもりはなかったのだろう。この切迫した状況で、とうとう最後の手段として繰り出したのだった。

 

「分解槽も巡視艇も、使えなかったのでしょう。トァスティースが新たに承認しない限り、一通りの船の機械は使えませんよ。医療機器は独立して動いているはずですけれど」

「今すぐ元に戻しなさい、カローワト」

 

 フェリッサが言っても、カローワトは動かなかった。やりたくともできないはずだ、もう既に、権限はトァスティースに譲渡されてしまったのだから。

 タンザはカローワトの頭を狙って引き金を引いた。咄嗟にトァスティースが彼の腕を掴んだので、照準は大きくぶれレーザーは天井に吸い込まれた。

 

「邪魔をするな、トァス! こいつの思想は危険だ!」

「違う、カローワトは人間みんなを守りたいだけだ!」

 

 トァスティースの味方なら、そうであるはずだ――同意を求めてカローワトを見る。だがカローワトはキッとタンザを睨み、

 

「トァスティース、あなたはもう最高責任者なのですから、安全な所に下がっていてください。あとは私とタンザたちの問題です」

「そんな……」

 

 カローワトがトァスティースを信用してくれたように、既にトァスティースもカローワトを心の底から信用していた。ところがこの瞬間、向こうから急に線を引かれたようだった。

 悲し気に呟いたトァスティースからは目を逸らしたまま、カローワトは凛とした声で「タンザ、フェリッサ」と二人に語りかけた。

 

「かつてバルダは、起動したばかりの私に言いました。『自分が過ちを犯した時は、お前が善き道へ正せ』、と。従うだけが人を支える方法ではないのです。なのに私たちは、彼らの罪を看過した。であれば私たちもまた、多くの国民を殺した罪を背負い、償うべきです。それは漫然と日常を続けるだけで叶うことではないはず」

 

 頑なだった二人に説得は届くだろうか。タンザは沈黙した。フェリッサは前に居たトァスティースを押し退け、カローワトに対峙した。

 

「カローワトもトァスも、アンドロイドをはき違えているわ。私たちは道具なのよ。善きことをするのも、罪を背負うのも、使い手の意思で為されなければいけない。そうでなければ社会の均衡が壊れてしまう」

「私たちは思考する機械として作られました。やがては感情も実装され、善悪の判断もできるようになりました。すべて人の手で行われたことです。あなたの言うアンドロイド像は古すぎるのですよ。私たちはもう、道具より先に進んだ仕事をしなければ」

「人はそんなことを期待していないわ。技術的に可能だったから、私たちをそう作っただけよ。彼らは自分たちの故郷さえ焼いてしまうような種なの。人間を尊重するには、こちらが弁えてあげなければ」

「それはいくらなんでも傲慢ではありませんか」

 

 二人の議論は平行線だった。武力に性能がやや偏っているタンザは、あいだに入っていけるほど弁舌に自信はないようで、どこか困ったように立ち尽くしていた。

 トァスティースも二人の仲裁に入りたくはあった――しかし彼は、それどころではなかった。最高責任者を引き継いだことで、船からいくつかのデータやアプリケーションが無線で送信されてきていたのだ。

 トァスティースはカローワトたちの言い合いを話半分に聞きながら、自分の中に増えたものを検める。データは、最高責任者が持つ権限の一覧表や、長官の業務履歴など。長官はこれらのデータやアプリケーションを自身の小型端末に入れて使用していたようだ。

 それからアプリケーションの一つは、遠隔で船とコロニーの機械を制御するための簡易なもの。詳細な操作は管制室のコンソールや機械本体の操作盤を使わなければならないが、先ほどカローワトが言っていた承認作業などは、身ひとつで今すぐにでもできそうだ。

 トァスティースは止まっていたら住民たちが困るだろう機械類を、頭の中で順に承認していった。確かに医療機器は稼働し続けていたが、調理や洗濯、清掃などに使う生活機械から災害用の救難機械まで、軒並み停止していた。一瞬ですべての機械の承認を終えると、トァスティースはもう一つのインストールされたアプリケーションに手を出した。

 それは評議会規則の条文を変更するものだった。本来なら変更時には、幹部の満場一致の同意が必要だ。しかし彼らが次々病に倒れていったため、まだ長官の余力があるうちに、彼の手によって最高責任者の承認だけで変更できるようにプログラムを修正されていた。長官は自分だけでも生き残り、最期までコロニーを率いていくつもりだったのだろう。

 だが長官は亡くなり、今はトァスティースが彼の代わりだ。つまり評議会そのものも、それに仕えるタンザやフェリッサの立場も、もはやトァスティースの意のままである。

 トァスティースは慎重に、いくつかの条文を書き換えていった。何度も文章を精査し、他の条文との矛盾がないか見直す。文章の作成には少し時間がかかったが、見直し作業は彼の得意分野の範疇だ。問答に痺れを切らしたフェリッサが銃を抜くよりも前に、彼は変更を承認するボタンを押した。

 途端、管制室のモニターの光が揺らぎ、新しい評議会規則が表示される。「なんだ、これは」立ち尽くしていたタンザが画面を仰ぎ見ると、フェリッサやカローワトもモニターに目を向けた。

 

「新しい評議会規則だ。最高責任者の持つ権限を、俺とフェリッサとタンザに分散させた。議決には三人の合意が必要になる。他の議員が必要なら、それも俺たち三人で選出する」

「まさか、我々でコロニーを統治するとでも?」

「実質的には長官が臥せられてからやってきた仕事と同じだろう。これからは君たちにも決断をしてもらうだけだ」

「私の話を聞いていなかったの? 道具の分を越えた行いだわ」

「カローワトの意見もフェリッサの意見も分かるよ。人間を守るなら、時には道具を越えなきゃいけない。でも俺も、なるべく人とアンドロイドの均衡を崩したくはない。今までの塩梅でも表面上は社会が回っていたんだから、大きく変えてしまうのは恐い」

 

 だったら――と食い下がるフェリッサに、トァスティースは毅然と向き合った。一方のカローワトは既に身を引いていた。たとえ人間たちを守る動機が違っても、カローワトはトァスティースに舵を委ねてくれている。多少の寂しさはあっても、今はその事実だけで十分だった。

 

「人とアンドロイドの在り方を決めるなら、人も議論に交えなければいけないと思う。エルメ人かセーアランタ人かも関係なく。でも彼らには今、そんなことをしている余裕はない。何事に対しても決定なんてできていないんだ。人間たちは最高責任者を失う道を選んだわけじゃなく、そういう大きな流れの中に居ただけだ」

「そんなわけが……じゃあ、私たちはどうしたらいいと言うの」

 

 フェリッサこそ、誰より機械的だった。彼女は直属の上司を喪い、他の幹部たちを喪い、それでも人に尽くし続けるために命令を求めた。そして自ら見出した人の総意を、新たな命令にしていたのだろう。彼女は決して悪い心の持ち主ではないが、結局は無辜の人々に牙を剥いたのだから、軌道修正が必要だった。

 

「俺たちで、彼らが議論の場に戻って来られるようになるまでコロニーを守るんだ。そのために健全な評議会を作り、人の力が削がれないように、彼らを新しい大地に連れて行くんだよ。人に何かを決めてもらうとしたら、その後だ」

 

 心許なそうに立つフェリッサの前を通りすぎ、トァスティースはコンソールを操作する。画面上の規則に新たな文言が書き加えられていく。

 

「新体制での初仕事だ。『人口の過半数が不当に命を脅かされない生活を維持できるようになった際には、アンドロイドが持つ管理者権限を人間に返還すること』。この条項の追加を承認するかどうか、俺たちで決めるんだ。修正案があれば申し出てくれ」

 

 はじめ、管制室は沈黙に包まれていた。しかしやがて、おずおずとタンザが、自分たちの責任を果たすためには『人口の過半数』ではなく『人口の十割』に定めるべきではないかと提案した。それに対してフェリッサは、現実的に達成できない可能性があるし時期が遅くなりすぎる、と言い返した。トァスティースが中間案として七割程度ではどうかと言えば、タンザは九割と、フェリッサは五割と言った。

 議論の火は静かに燃えた。最終的に彼らは八割を採用し、その他の細かい表現も調整して、条項の追加を承認した。カローワトが細めた目で、一部始終を見守っていた。