【2】

 

 エルセアーデには、エルメ人とセーアランタ人が搭乗している。公的にはどちらもハザにあったエルメシダという国の民で、中でも宇宙への移住に同意した者たちがエルセアーデに乗っている。

 呼び名は違うが、彼らはまったく同じ人種だ。ハザで人工空中浮島の建造に成功し、セーアランタ区という名で運用開始された折に、浮島に移住した者が俗称としてセーアランタ人と呼ばれるようになった。対して地上の住民はエルメ人を自称した。その頃に始まった民間での区別が、今も続いているわけだ。

 セーアランタ区と同じ人工空中浮島の技術は、コロニーにも使用されている。仮設船の外ではロボットたちが浮島を作り続けていて、居住地として相応しいだけの大地が完成したら、人々は船を解体して外へ出ていくのだ。そこでは母星と変わらぬ土を踏みしめられる。ドーム内側のディスプレイが空の移り変わりも再現し、コロニー内の水蒸気によって雲や雨も発生する。宇宙空間であっても、自然を感じながら暮らしていけるのである。

 すべての住民を住まわせるため、浮島の居住可面積は相当に広くなる予定だ。つまりウイルスを持ったまま人々が外へ出てしまえば、収拾を付けるのはより困難になる。疫病根絶は、必ず仮設船の中で完結させなければならない。

 

 

 

 カローワトが一層に戻った翌日、早速タンザが報告を携えて管制室に来た。彼は顔をしかめ、トァスティースの前でわざとらしく口から排気した。溜め息を吐いたのだ。

 

「ネズミだよ、トァス」

「ネズミ?」

「ウイルスの発生源だ。シェナ嬢はペット代わりにマウスを一匹持ち込んでいた可能性がある。そいつがウイルスを持っていたに違いない」

「そんな馬鹿な」

 

 ネズミと言えば往古来今、病毒を運ぶ死の使いである。そういった建物内に紛れ込みやすい危険な小動物を見逃さないよう、コロニー発進前には厳格な生体反応スキャンが仮設船全体にわたって行われていた。ペットの抗原検査も漏らさず執行したはずだ。それを、よりにもよってウイルスを持ったネズミを見逃しただなんて、そんな初歩的なミスがあったとは信じられない。

 

「お前が疑うのも分かる。ただ、実験用マウスなんかを入れる、小さいコールドスリープ・ケースがあってな。ケース内だとマウスは仮死状態になるんだが、そうするとスキャンを何百回かに一度くらい、すり抜けてしまうことがあるんだ」

「シェナがそんなケースを持っていたって言うのか? 一般家庭の六歳児が?」

「セーアランタではガラクタをそこらでよく売っていたから、ご両親がペンケースあたりと間違えて買ったんだろう。子供のおもちゃ箱にでも詰め込まれていたら、持ち物検査の担当官によっては見落とされた可能性もある。スキャンに引っ掛からなければ、なおさら」

 

 トァスティースはコンソールの操作パネルを叩き、仮設船全体に生体反応スキャンを施した――未知の小動物の反応はない。続いて分解槽のログを調べた――マウスを処分した記録もない。

 

「本当にマウスのせいだとして、今はどこに居る? 生体も死体も見つかっていないぞ」

 

 タンザは首を横に振った。いきなり衝撃的な――そしてひどく杜撰な――真実を持ち込んでおいて、肝心な部分が分からないとはどういうことか。タンザを責めても仕方ないが、トァスティースは思わず口を曲げた。しかしタンザは、駄目押しにもう一度首を振った。

 

「トァスこそ、どうしてシェナ嬢に目を付けたんだ? マウスのことが分かっていたわけでもあるまいに」

 

 と、疑惑を向けられるのは、今度はトァスティースの番だった。カローワトがシェナを調べていたことは、タンザにはまだ教えていない。トァスティース自身の心の持ちようが決まるまで、他の者にはカローワトへの疑念を持たせたくなかったからだ。

 この段階に至れば、普段のトァスティースなら包み隠さずタンザにカローワトのことを話しただろう。しかし今のトァスティースの中では、タンザに対しても微かな疑いが生まれていた。仮にシェナがコールドスリープ・ケースを船内に持ち込めたとして、ウイルス持ちのマウスはどこで捕まえてきたのか? もともと飼っていたなら一家は宇宙に出る前に死んでいたはずだし、仮設船でウイルスを拾ったなら、別の発生源があったことになる。なのに何故タンザは、ただマウスのせいだ、と言い張れるのだろう?

 答えを待つタンザに、トァスティースはやむを得ず嘘を吐くことにした。最初に発症したのはシェナの母親だが、ウイルスを持ってきたのはあちこちで遊び回っていた子供のほうではないか。だから彼女の行動を改めて調べたかったのだと、それらしい理屈を並べた。言ってみて、案外カローワトもそんな単純な考えでシェナを調べていただけかもしれないと思った。それを正直に言わない理由は分からなかったが。

 トァスティースの返事にタンザは一応納得したようで、ひとたび頷くと管制室を出ていった。これからあちこちにネズミ捕りを仕掛けるそうだ。しかしトァスティースには、きっとマウスは見つからないだろうという漠然とした予感があった。

 

 

 

 

 

 それから数日経ったが、マウスは見つかっていない。カローワトは前と変わらず長官の部屋に籠りがちで、他の階層へ調べ物に行った様子はなかった。

 変わったことと言えば、タンザとフェリッサのことだ。彼らのあいだに心なしか壁ができたように見えた。アンドロイドたちも意見の相違が生じれば口論をする。だから仲違い自体が異常なわけではないが、きっかけがまるで分からないのが困りものだ。

 しかも、彼らはトァスティースに対してすら距離を置くようになった。シェナの調査について嘘を吐いたのがバレたのかと思ったが、フェリッサまで何も言わずに機嫌を悪くしたのは意味が分からない。

 ただでさえカローワトが気掛かりだというのに、身内同士も信用できないのでは参ってしまう。仕事は通常通りこなしていたが、トァスティースの作業効率は少しずつ落ちていた。タンザやフェリッサが定例報告に来ると、管制室はどうにも居心地が悪かった。

 

 

 宇宙へ発った当初は、二層から四層をエルメ人が住む上層と、五層から七層をセーアランタ人が住む下層としていた。病棟エリアを設けた現在の仮設船においては、二層と三層がエルメ人の居住区、四層がセーアランタ人の居住区だ。

 そして一層は、もともと評議会の幹部たちが住んでいた。他には評議会に属するトァスティース、タンザ、フェリッサと、幹部が私的に所有するアンドロイドが暮らす階だった。しかし主人を亡くした私有アンドロイドたちは新たな仕事を求めて二層以下に去ってしまったので、現在一層に留まっているのはカプセル内の長官、評議会のアンドロイド三人、そしてカローワトだけだ。

 同じ階のアンドロイド全員に疑念を抱いてしまうと、トァスティースにとっては一層という場所自体が居づらかった。ある日、彼は休憩として管制室を抜け出し、四層に向かった。すると昇降機を下りてすぐ傍にある、小さな喫煙室が目に留まる。ガラス張りの室内に紫煙が籠っているのが見えた。

 ドアをノックして中に入ると、人相の悪い中年の女性が一人で煙草を吸っていた。癖のある金髪はどこか草臥れて艶がなくなっている。

 

「おう、トァスじゃないか。お疲れさん」

「どうも。ヴェルリ、今は喫煙室の使用は推奨されていないよ。というかできれば止めてほしい」

「吸い殻や灰皿を媒介にしてウイルスが、だろ? 安心しなよ、ロボットには毎日検査してもらってるし、何よりこの喫煙室はもうアタシしか使っていない」

「だからいいってことでもないんだけど――」

 

 この女性、ヴェルリ・コートナーとは、仮設船に来てからの知り合いだ。

 彼女はセーアランタ人で、以前は五層に住んでいた。七層で疫病が発生した際には、早期封じ込めのために五層以下が丸ごと隔壁で遮断されたが、その時ヴェルリはまだ非感染者だった。だが、しばらく下層から出してもらえなかった。

 その状況から彼女を助けたのがトァスティースだ。彼は機械たちの指揮権限を得ると、まず階層単位ではなく感染者と非感染者とで厳密に分け、感染者のみを新設した病棟エリアに移させた。それから医療アンドロイドには患者の治療に専念するよう指示し、ロボットたちには感染者に近しい者の待機所への誘導や、毎日の抗原検査を実施させた。この施策によって家族と引き離された者たちからの反発は多少あったが、ヴェルリはそのお蔭で安全を取り戻せたので、以来トァスティースを命の恩人と認めてくれている。

 

「すまない、未だに疫病も終息させられず、窮屈な思いをさせて。不甲斐ないよ」

「謝るな、ここまで悪化したのはあんたのせいじゃない。人間のやり方がまずかったのさ」

 

 ヴェルリはよく、人間が悪いのだと言う。トァスティースは人間を好きになるように作られているので、その言葉はあまり気分が良くなかった。だが彼の分析では、ヴェルリは客観的な思考が得意で、追い込まれた状況でも冷静さを失わない、貴重な性質を持っている。恐らく彼女の言うことは間違ってはいないのだろう、と、そう信頼するくらいには、この女性を高く評価していた。

 

「なぁヴェルリ、長官のことは知っていると思うんだけど、君が代わりに最高責任者になってくれないかな」

「はぁ?」ヴェルリは急に大声になった。「馬鹿を言うな、アタシについてくる奴なんざ居ないよ」

「そんなことはないよ。苦手な分野は俺たちがいくらでもサポートするし、君の観察眼や胆力は人の中でも優れているほうだと思う」

「あぁ、そういう話じゃないんだ、トァス」

 

 一度は怒ったかに見えたヴェルリだが、すぐ声を落ち着かせて諭すように言った。

 

「人間には難しいんだよ。アタシたちは一度、上層と下層とで分断されちまった。エルメ人とセーアランタ人とで、だ。今じゃもう、セーアランタ人はエルメ人に従わないし、エルメ人はセーアランタ人に従わない」

 

 船内に蔓延る緊張感を、トァスティースも察してはいた。日々の健康チェックの結果から、全搭乗者のストレス値が常に高めだと知っていたからだ。しかしそれは疫病発生時からずっと同じことで、原因が閉鎖空間のせいか、疫病のせいか、それとも居住区による対立のせいなのかは、データだけでは分からなかった。

 

「そんな中でも、トァスはよくやってるよ。あんたが機械たちを仕切るようになってから、感染者の増加はかなり緩やかになった。あんたはまだ人間に直接何かを指示してはいないが、聞いてくれる奴はそこそこ居ると思うよ」

 

 アタシも信じている、と、ヴェルリは言った。そして彼女は短くなった煙草の火を消し、灰皿に捨てて喫煙室を出ていった。彼女もトァスティースに、コロニーを率いてくれと願っているのだ。

 心強いはずの信頼が、トァスティースには苦しかった。そもそも彼は、コロニー中の膨大な情報を処理するために作られたアンドロイドだ。今はまるで機械たちを統率できているように見えるが、彼らを指揮するのはトァスティースの本分とは言えない。実際にカローワトやタンザ、フェリッサがそれぞれの思惑を持って行動しだすと、その意図が掴めず疑念に囚われてしまった。

 だからトァスティースは、自分以外で責任者に向いた人材を求めていたのだが、ヴェルリの言うことにも一理あった。今の人間たちには、住民全体を俯瞰する余裕などない。ならば自分たち機械が彼らを守ってやらなければならない。

 そう思っても、トァスティースの気は進まなかった。万が一にでも機械が力を持ちすぎれば、将来のエルセアーデ住民すべての運命を変えてしまいかねない。たとえタンザやフェリッサに責任者を担ってもらっても、それは同じことだ。

 喫煙室を出たトァスティースは、非常階段で一層へ戻ることにした。一瞬で移動できてしまう昇降機より、考え事をするにはちょうど良さそうだったのだ。それに、他に使う者は滅多にいない。

 だが奇しくも、二層から一層の踊り場に先客が居た。壁に凭れてぼんやりと床に目を落としている、今一番会いたくなかったアンドロイド――カローワト。トァスティースは踊り場を見上げたまま、つい固まってしまった。

 

「何故、ここに?」

 

 呟くと、カローワトもトァスティースに気づいた。それから「一人で考え事をしたくて……」と、トァスティースとまったく同じ理由で答えた。

 しばらく、互いに口を閉ざして見合う。敵に遭遇した獣の睨み合いのようだった。だがややあって、カローワトが思いのほか静かな声で「トァスティース」と呼んだ。

 

「どうかなさいましたか? お加減が優れないようですけれど」

 

 元はと言えば君のせいじゃないか――咄嗟に出かかった言葉を、それでもトァスティースは飲み込んだ。カローワトの眉が、ただただ心配そうに下がっていたからだ。

 

「介護用アンドロイドは、機械の具合まで分かるのか」

「あなたは高級なアンドロイドですから、繊細な表情作りもお上手でしょう。誰でも分かると思いますよ」

 

 そうだろうか。トァスティースは情報処理能力なら群を抜いているが、感情の再現レベルは同世代のアンドロイドに比べて少々劣る。仮に表情作りがスムーズだとしても、カローワトほど感情が分かりやすくはないと思う。

 

「私に聞ける悩みなら、お聞きしましょうか?」

「それなら前と同じだ、最高責任者の引き継ぎで困っている」

「なら、私も同じ答えですね。あなたがなればいい、トァスティース。私はあなたを信用しています」

「それが分からないんだ。君の心が分からない……」

 

 もはや呆然と立ち尽くすことしかできなかった。カローワトは表情も豊かだし、トァスティースを心配したり信用したりしてくれる。なのに肝心の真意だけが、ずっと掴めないままでいる。

 

「タンザやフェリッサもだ。誰もが嘘や隠し事を抱えている……。俺は大量のデータを扱うのが得意だけど、中身の不透明なデータまで含めて処理するのは難しい。なのに、そんなデータばかりがどんどん蓄積していくんだ」

 

 自分の吐いた嘘すらもトァスティースには重荷だ。もっとクリアなデータの羅列にだけ触れていたかった。だというのに、曖昧なデータが整理できないまま溜まり続けている。作業効率が落ちているのはそのせいだった。

 カローワトはゆっくりと階段を下りてきて、トァスティースの顔を見上げる。青い目の奥にある瞳孔カメラが、カシ、カシ、と微かな作動音を立てた。

 

「疲れているんですね、トァスティース。働き詰めでしたものね」

「俺は本来の業務だけなら、一年は稼働し続けられるよ」

「本当に本来の仕事だけをできるアンドロイドなんていません。それにそんな働き方をしたら、すぐに壊れてしまいます。あなたにも、そろそろ気晴らしが必要なんですよ」

「気晴らし? ……何をすればいいのかな」

「そうですね、この後お時間はありますか?」

 

 休憩には一時間ほどとってある。まだ三十分近くは残っていた。

 

「なら、少しお付き合いいただけますか? 私と居て気が休まるかは分かりませんが」

 

 言うと、カローワトは黙ってトァスティースを見つめた。トァスティースは、もうどうにでもなれ、という気にしかならなかったので、小さく頷いた。そして一層へ上がっていくカローワトの後ろを大人しくついて行った。

 

 

 

 カローワトが向かったのは、一層にある飛行用ハッチだった。青みを帯びた白色の、箱のような飛行船艇が、三つほど並んでいる。これは仮設船の外へ行くための巡視艇だ。浮島やコロニー外郭で働くロボットの巡視のために使われる。

 

「君は船外にも行けるのか?」

 

 トァスティースが機械の指揮や移動の権限を持っているのは、あくまで仮設船の内部だけだ。外のロボットたちには関与できないし、スラスターを操作してコロニーの進路を変えることもできないし、ましてや巡視艇を使うこともできない。

 それらを扱う許可を付与できるのは、長官が持っている管理者権限だ。だからコロニーを維持していくためには、いずれ誰かが絶対に、最高責任者として管理者権限を引き継がなければならないのだった。

 

「巡視艇の一機は長官の所有物なんです。キーを頂いているので、それだけなら乗れます」

「待ってくれ、俺は外に出ていいと言われていない。違反になると思う」

「あなたが禁止されているのは巡視艇の操作でしょう? いずれみんな外へ出ていくんです。出ることそのものを制限されている者は、誰もおりませんよ」

 

 トァスティースは自分に保存している規約や権限一覧を見直す――確かに、カローワトの言った通りだ。仮設船外に出てはならない、という文言は、どこにも見当たらない。

 

「自動操縦なので、好きな場所に降りることはできません。けれど、それなら違反のしようもないでしょう。窮屈な思いをしている船のみんなには申し訳ありませんが、あなたの気晴らしを咎められる者だっておりません」

 

 カローワトは一番奥の艇の前に立ち、ドアに銀色のカードキーを翳した。ドアは「ぷしゅ」と音を立て、横にスライドして開いた。

 促されて中に入ると、細い艇体の左右には、座席が壁に沿うように固定されている。その壁には大きなガラス窓が付いている。この窓から外の様子を見られるのだが、これは巡視というよりも観覧のための艇なのではないだろうか。内部の見た目は、トァスティースの記憶領域に保存されている鉄道の客車の画像と似ている。

 艇首の操作盤に、カローワトが再びキーを翳す。艇は軽快な電子音で答えた後、小さな振動を始めた。呼応するようにハッチのシャッターが上がっていき、やがて開ききった頃、巡視艇はひとりでに外へ向かって滑り出した。

 そうして仮設船を飛び出すなり、トァスティースは窓から注ぎ込む青色に包まれた。コロニーのドームに広がる、ハザと同じ青空。いや、地上で見た時よりも少し青が濃いだろうか。

 

「この時間は、ディスプレイの点灯試験をしているそうです。私は宇宙に出てすぐに、長官に見せていただきました」

「ああ、俺もモニター越しになら……でも実際の色を目の当たりにするのは初めてだ」

 

 圧倒されながらも下のほうに目を向けると、巡視艇と同じ白い金属で出来た巨大な円盤や、その上に土を盛った造りかけの島が、あちこちに浮かんでいた。白色の金属は月白鋼(げっぱくこう)と呼ばれており、丈夫で軽く、浮遊物に多用されている。すべての浮島も、この月白鋼を使った土台を基盤として造られるのだ。

 

「外区はだいぶ出来上がっていますね」

 

 カローワトがコロニー内縁を指差した。ドームの根元の円に、大地がぐるりと張りついている。外区は、資源生産プラントとして運用されていく予定の土地だ。こちらも月白鋼の基盤を用いてはいるが、コロニー外郭の補強も兼ねているので浮遊はしていない。

 まっさきに造られた植物資源プラントは、既に地表が薄っすらと緑色になっていた。もう植栽が始まっているようだ。隣の水産資源プラントには巨大な貯水槽や生け簀ができ、深い藍色が気流で波打っている。外区で育てる動植物は船外のコンテナや水槽で運ばれたので、生け簀でも既に食用魚介類の養殖が始まっているだろう。

 それから未だに基盤が見えているのは、アルヒリム精製用プラントだ。

 アルヒリムという元素は、母星ハザの地脈を流れていた魔力素と合成することで、魔法を起こすことができた。このコロニーの要である魔導核も、浮島の基盤も、魔法を用いて造られた魔導機構だ。

 ところが魔力素は、今のところハザでしか発見されていない。つまり、もうエルセアーデで新たな魔法を使うことはできない。だが幸いにも、魔導機構の保全や補修に使うアルヒリムは、宇宙でも隕石や小惑星から鉱物に付随した形で採掘できる。だからこうして精製用プラントが造られているのだった。

 

「精製用プラントに建てるのは精製炉だけだ。すぐ造り終わって、居住用浮島の建造が進むようになる」

「ええ。すべての浮島が完成したら、早くみんなを大地に下ろしてあげませんと……」

 

 カローワトは着々と出来上がっている大地を、窓ガラス越しに愛おしそうに撫でた。一方、トァスティースは表情を曇らせた。

 

「そのためには疫病を根絶しないといけない。感染者の増加は収まっているから、後は検疫を徹底して、死亡者を順に葬っていくことしかできないけれど……」

「ワクチンや治療薬の開発は叶っていませんものね……。けれどコロニーを崩壊させないよう、トァスティースはよくみんなを守ってきましたよ。あなたなら、きっとこの先も大丈夫」

 

 今まで過酷な状況を対処してきたトァスティースだが、「うんざり」という感情を覚えたのはこれが初めてだった。彼はいい加減、カローワトの根拠不明な信用に耐えられなくなっていた。

 

「頼むカローワト、教えてくれ。どうして君はそんなに俺を信じるんだ。俺はヴェルリにしたみたいに、君の命を救ったことなんかない。タンザやフェリッサみたいに、一緒に苦難に当たったこともない。君に信用される理屈が分からなくて、俺の中で不透明なデータになってしまっているんだ。そんなデータでは計算が上手くできないから、責任者になれと言われても成功する未来が見えないんだ」

 

 苛立ちまじりに吐露すると、カローワトはその勢いに一瞬驚いたようだった。けれどもすぐ微笑みをトァスティースに向ける。トァスティースの分析機能によれば、悲哀や寂しさが混ざった笑みだった。

 

「安心なさってください。委細は明かせませんが、私はなんの根拠もなくあなたを信用しているわけではありません。しっかりと、筋道立った理由があるのです」

「何故、明かせないんだ。それさえ聞ければ、俺だって君を信じられるのに……」

「私が機械である以上、無理な話です」

 

 それは、アンドロイドがやむを得ず口を閉ざす時に使う、常套句だった。

 そしてトァスティースは察した。カローワトが真意を話せないのは、それが主人の秘密に関わるからなのだ。それも人に知られてはならない、すなわち悪事や不名誉に繋がるような。道具が持ち主を貶めることがないよう、主人が存命中のアンドロイドには固い守秘義務が課せられている。

 隠し事があるのはカローワトやタンザ、フェリッサだけではなかった。長官も含めて、評議会を取り巻く誰もが秘密を抱えていたのだ。もはやトァスティースのこれまでの判断基準は当てにならない。彼は自分が仕える評議会という組織そのものを疑えたことはなかった。そういう風にプログラミングされていたからだ。

 愕然としたトァスティースを見かねてか、カローワトはひそめた声で打ち明けるように言った。

 

「ただひとつ言うなら、私はあなたの感染者隔離策を非常に高く評価しています」

 

 一ヵ月前の、感染者と非感染者で分けた施策のことだ。

 

「あれは……普通の対応だよ。最低限と言ってもいい」

「けれど、このコロニーでそれを始めたのは、あなただったんですよ。トァスティース」

 

 トァスティースの表情がハッとしたものに変わると、カローワトは満足気に頷いた。

 

「あなたはあなたのまま、思うようにすればいい。そう在る限り、私もあなたと同じ道を行くでしょう。たとえ今は違って見えたとしても」

 

 

 

 それから、浮島や作業中のロボットなどを眺めつつ当たり障りのない話をしていると、やがて巡視艇は仮設船のハッチに戻った。艇を降りると、カローワトはまたドアにキーを翳してロックをかける。すれば巡視艇の駆動音もぴたりと止まった。

 

「気晴らしにはなりましたか?」

 

 トァスティースは頷く。管制室での業務から離れている間に、溜まっていたデータの整理もできた。思考のパフォーマンスが元通りにまで向上している。

 

「ありがとう、カローワト。君と話せて良かった」

 

 礼を告げると、カローワトは小さく頭を下げて去って行こうとした。その背中をトァスティースは「最後にひとつだけ」と呼び止める。

 

「君がシェナを調べていたのは、マウスの死骸かケースを探していたから、でいいのか?」

 

 振り返ったカローワトは、返事らしい返事はしなかった。代わりにもう一度頭を下げた。それは肯定の頷きのようにも見えた。

 

 

 

 管制室へ戻ったトァスティースは椅子に深く腰掛け、目を瞑った。そして閉じた瞼の裏で、これまでの情報をまとめ直していた。

 カローワトは曖昧な話しかしなかったが、多くのヒントをくれた。お蔭でようやく、トァスティースの中でいくつもの事柄が真っすぐな線で繋がった。

 

 かつて、完成したばかりのセーアランタ区に住まわされたのは、当時のエルメシダ国における経済的弱者たちだった。彼らは空中の浮島でも地上と変わらない暮らしができるか実験するために、空に送り込まれたのだ。地上に残った人々は被験者たる彼らを、軽蔑と揶揄を込めてセーアランタ人と呼ぶようになった。対して自分たちのことは、誇り高きエルメ人だと自称した。

 最下層で疫病が始まってから、船内を上層と下層とで大雑把に分断したのは、エルメ人が大半を構成する評議会幹部たちだ。下層にはヴェルリのように感染していないセーアランタ人がまだ大勢いたが、早期の封じ込めを謳って分断は強行された。セーアランタ人の非感染者たちはなかなか救出されず、結局下層の人口のおよそ半数が死んでしまった。

 そして人口が減ってからというもの、航行初期に評議会を悩ませた、将来の食糧不足を予告するアラートは、一度も管制室のモニターに表示されなくなっていた。

 

 今となってみれば、すべてがあからさまだった。けれども評議会を盲信するトァスティースは自力で真実に至れず、場当たり的に目の前の問題だけを処理してきていた。タンザ個人への不信感に加え、カローワトがもたらした長官への疑念がとどめとなって、ようやく彼の無機的な思考回路は生きた脳に変わったのだ。

 すると彼は、タンザやフェリッサが自分とは違う視座に立っていることを悟った。それにヴェルリたち人間も、評議会の意図に気づいているのだと。恐らくセーアランタ人は評議会の人間よりもトァスティースによる統治のほうが安全だと思い、今のところは成り行きを見守っている。エルメ人は自分たちを選んだはずの評議会の異変を受けて、力関係の移り変わりを慎重に窺っている。

 エルセアーデで何も知らない愚者は、トァスティースただ一人だった。

 そしてカローワトもまた、長官ならびに評議会の思惑を知っていた。しかし賛同はしていなかった。だからこそ、評議会の意図に反した施策を実行し、なるべく多くの命を救おうとした愚直なトァスティースを信用してくれたのだ。