※END1(新世界エンド)の後日談に当たる短編です。ネタバレしかありません。
未クリアの方はご注意ください。
全五話10,000字くらい。
『花守と四季』
一.冬の末端
北からの風が和らぎ、草木の緑が見え隠れしだした冬の終わり。朝の仕事を一通り終え、一服しようとポットに火をかけると、玄関の呼び鈴が控えめに鳴った。
「□□□さん、居る?手が塞がってるんだ、開けてもらえるかな」
ドア越しの声に慌てて戸を開く。真昼の陽光と共に目に飛び込んできたのは、やはり馴染みの顔だった。その腕にはバゲットのはみ出た重そうなバスケットが抱えられている。
「ありがとう。花畑に行くって言ったら皆にお土産を持たされてさ。……火、使ってたの?駄目だよ、離れるならちゃんと消さないと」
急かしたのはそっちだろうに。言葉は胸の内に留め、客人を招き入れた。
◇◇◇
客人――橙に近い茶髪の青年、友人――の持ってきたバスケットの中身をテーブルに広げる。焼きたてのバゲット、青臭い軟膏、歪な形のバタークッキー、冬の作物の諸々……。前から頼んでいた軟膏以外は村からのお裾分けだろう。お茶請け用にクッキーだけ皿へと並べ、残りは有り難くしまう。その間に友人がポットの湯でお茶を淹れてくれていた。
お茶とお菓子が揃うと、二人テーブルにつく。バスケットは持たされたと言っていたから、配達の為ではなく他に用事があって来た筈だ。彼が一人で来るのも近頃は珍しかったし、今日は特別な話でもあるのかもしれない。
ちびちびとクッキーを齧り様子を窺っていると、向かいの友人がカップを置いた。
「調査隊を出すことになったんだ」
と、切り出しは唐突で、思わず首を傾げる。それを見ると友人は事の経緯を順番に話し始めた。
「村は徐々に人が集まってきて賑やかになった。ほとんど順調だけど、今の水源だけだとちょっと不安になってきてね」
もう何年も前に出来た近くの村は、確かに最初と比べれば随分大きくなっていた。すぐ側にある森の恵みのお陰で食べ物には困らないし、南方の村との交流も始まり商人が増えた。活気は年々増していると言っていいだろう。
しかし人が増えれば問題も増えるものらしい。
「今はまだ大丈夫なんだ。でもこのまま村が発展すればいずれは……。だから前からいい水場がないか探してはいたんだけれど、どうにも芳しくなくて。それで、今度は少し遠くまで行くことになった。それが調査隊」
成る程、と頷く。今、村の水源は森の泉頼りだ。泉に涸れる様子は見当たらないが、増え続ける人の暮らしを支えきる余裕はないかもしれない。
水場なら東へ進めば湖があるだろう。過去の旅路を思い出し告げると、友人はほっと肩を撫で下ろした。
「もしかしたら君が知っているんじゃないかと思っていたんだ。村に戻ったら早速伝えるよ」
時たまこうして村のご意見番として頼られる事がある。自分も大した知恵はないが、多少なりとも彼らの助けになっているようだ。
とはいえ、この友人が村の重大な話を持ってくるのはこれが初めてだった。村の中で彼はまだ、若輩の扱いだからだ。いつもなら村の長や重役が意見を求めて来るが――
「今日は長に役目を譲ってもらったんだよ。君には直接伝えたいことがあったから」
もう考え事は外に洩れない筈だというのに、彼はいかんせん察しがいい。
「僕も調査隊に参加するよ。本格的に春が来たら出発する。暫く戻れなくなるから、その間……下の子達に何かあったら、助けになってあげてほしいんだ」
よろしくお願いします。と、彼は深く頭を下げた。
二.春暮れの雨
爽やかな夏の前には湿った空気が押し寄せるものだ。久々に村へ出向いたその日も、重たい灰色雲が空を覆っていたかと思えば、突然ザァと雨が降り始めた。
駆け込んだ大木の下には自分の他に一人、二人。お互いの見慣れた顔を確認すると、三人の間に苦笑が広がる。賑やかな雨宿りになりそうだ。
◇◇◇
「ひぃとつ、ふたつ。みっつはなぁに」
「みっつは……飴玉!」
「残念、私はありんこ。また私の勝ち」
「むぅ!また負けた!」
退屈した少女達は村で流行りの手遊びを初めたようだった。所謂じゃんけんと同じようなものらしい。灰がかった金髪を結わえた少女は、先程から連戦連敗だ。実は彼女の出す手には癖があるのだが、青いおかっぱに麦わら帽子を乗せた少女は、それをとっくに看破しているのだろう。
「ねぇ、お兄ちゃんなら帽子ちゃんに勝てる?」
「どうかなぁ。君には勝てると思うけど」
「どうしてぇ!?」
必死に笑いを堪える“帽子ちゃん”の横で金髪の少女が目を丸くする。帽子ちゃんというのは彼女達の間で使われる麦わらの少女のあだ名だ。曰く、いつもイカす帽子を被っているから。対して金髪少女は“砂糖ちゃん”と呼ばれている。曰く、家に行くといつも甘いお菓子が出てくるから。
「砂糖ちゃん、本当に気づいてないの?」
「へ、何が?」
砂糖ちゃんがぽかんとした顔で僕と帽子ちゃんを交互に見つめる。その様子が可笑しかったのか帽子ちゃんの笑いがついに決壊して、続きを言うどころではなくなってしまった。
むっと頬を膨らませた砂糖ちゃんが、訴えるように僕を睨む。
「出す手、ローテーションになってるよ」
「……まっ!」
漸く気づいた少女は顔を手で覆った。
◇◇◇
雨はまだその勢いを保っている。それでも遠くには雲の切れ間が見えていた。もう少し待てば、この木陰を抜け出せそうだ。
「お兄ちゃん、東の湖ってどれくらい遠い?」
砂糖ちゃんが不意に言う。春の始めに旅立った調査隊は、まだ戻っていなかった。
「僕が歩いた時とは事情が違うから、なんとも言えないな」
僕が旅をした頃から、世界は大きく様子を変えてしまった。その最たるものが時間と距離だ。正確に廻る月と太陽は容赦なく時を進めるし、世界は格段に広くなった。
それに、今の人間には体力の限界がある。調査隊の帰りが遅いとなると湖は案外遠く、日常的な水源にはならないかもしれなかった。
「そういえば□□□さんの所はお水、どうしているんですか」
「家は蛇口を捻ると勝手に出てくるから……。地下を通っているんだろうけど、何処から引っ張ってきているかは分からないな」
「でもあの場所は下手に弄らない方がいいよ。ブラックボックスだもん」
「確かに、掘り返して暴くのは怖い」
「そういうものですか」
帽子ちゃんはどこか腑に落ちないようだが、それ以上追及する気はないらしい。花畑は不可解な場所。深入りしてはいけない聖地。それが村の共通認識だった。
「お兄ちゃん、まだ帰ってこないのかな……。あっ、今のはうちのお兄ちゃんの方ね」
「分かってる。冬までには戻れるといいけど」
「最近砂糖ちゃんはこればっかりなんですよ」
砂糖ちゃんの兄というのは、調査隊として旅立った友人のことだ。本人達や村人の認識では二人の間に血の繋がりはないが、友人には親がいないので、生まれてすぐ砂糖ちゃんの家に引き取られたということになっているらしい。
実際には、今の人々はみんな同じ年の生まれで血の繋がりなども怪しいものだが、彼らは自分の持って生まれた“歴史”を信じている。その真実を知るのは僕のような花畑の住人だけだった。
「君達がこんなに長く離れるのも、これが初めて?」
「そうなの!生まれてからずっと一緒だから……」
そう言うと砂糖ちゃんは俯く。そんな彼女をよそに――或いは気を紛らわせようと――帽子ちゃんが一際明るく「そうだ」と声を上げた。
「砂糖ちゃん、あの事□□□さんに訊いてみない?私達より大人だし」
「む、それはそう!名案!」
いぇーい、と少女達は姦しい。二人は村が出来た後に知り合った同士だが、それでももう数年来の仲良しだ。こうして互いの気分を持ち上げるのも巧い。
「訊きたいことって?」
「うん、あのね……」
不安の色は消えた砂糖ちゃんだが、促すともじもじとまた俯く。
ふと、冬の終わりに友人が言っていたことを思い出した。何かあったら助けになってあげて。今がその時かもしれない。うむ、友人たっての頼みを無下には出来まい。
「大丈夫だよ、何でもいいから言ってみて」
「じゃあね……大人のレディって、どうしたらなれる?」
「れでぃ」
「えっと、お兄さんが帰って来たときにちょっとでも大人になったところを見せたいってことです」
「それならそう言って」
予想外の質問には面食らったが、帽子ちゃんの翻訳を経てみれば彼女の考えそうなことだ。
村の子供達に言わせれば僕も大概“抜けた奴”だが、こういうときくらい頼りになるところを見せてやろうではないか。
さて、まだあどけなさの残る少女に僕がしてやれることと言えば――
「……今度、花畑のお姉さん達にでも訊くといいよ」
「そうする!」
専門家を紹介することくらいだった。
三.夏の去り際はピクニック日和
「ピクニックに行くわ!」
「せめて“行きましょう”とか言えないのか?」
生温い夏の風に冷たさが混じり始めた頃、お立ち台のようにダイニングの椅子に上り、高々と宣言する少女がいた。おお、我らをピクニックに誘わんとする桃色の髪の乙女は、ちまちまと木の実の殻をむく水色の髪の少年に、相手にもされていない。ちなみに僕は黙って少年を手伝っている。
「なんと言ったところで私達はピクニックに行くわ。言い方なんて些末事!」
「あぁそう。で、どこに行くのさ」
意外にも少年はピクニックに行く気のようだ。
「伝令の人が言ってたでしょ、森を抜けるといい感じの丘があるって。そこよ」
「そんな所まで……?まぁいいか、たまには。□□□さんもいいかな」
近頃は日差しも和らいできた。今日なんかはピクニックにちょうど良さそうだ。構わないと、二人に向かって頷いた。
◇◇◇
二週間ほど前、調査隊から伝令の数人が村に戻った。彼らが言うには、僕が教えた湖は確かに東にあった。辿り着くのに時間はかかるが、もっと多くの馬を手に入れて一度に沢山の水を持ち帰る事が出来れば、十分に利用価値は見込めるそうだ。彼らの帰還に長い時間を要したのは、水質の検査や付近に集落が無いかを、念入りに調査した為だとも言っていた。
更に、湖付近は木々が茂り、食用にもなる木の実や動物が繁殖しているらしい。村では貴重な魚もいるという。伝令達が持ち帰った干し魚がそれを証明していた。
そして湖がそんな拠点に相応しい場所なので、調査隊はこの機会にもっと遠くを調べに行くことにしたそうだ。出発時には予定されていなかった伝令役が先んじて戻ってきたのも、調査隊の決定を村に伝える為であった。
友人は、伝令役の中にはいなかった。
◇◇◇
「まぁ、途中で帰りたがる奴じゃないと思うわ」
「伝令の人が言うにはみんな元気そうだし、心配しなくても大丈夫だって」
森の出口へと歩きながら、そんな事を話す。少年少女はどうにも肝が据わっていた。
「丘を登ったら湖が見えるかな」
「どうかしらね、戻るまであれだけ時間がかかるほど遠いとすると……」
「見えたら手でも振ってやればいいよ。……それより、そろそろ荷物持ち交代してくれない?」
半歩遅れた少年が不満を漏らす。手から下げているのは三人分の昼食を収めたバスケットだ。受け取ろうとすると、すっと片手で制止される。
「□□□さんは家を出てから暫く持ってくれたじゃないか」
「まぁ!つまりかよわい乙女の細腕で持てっていうこと?」
「誰がかよわい乙女だよ。そもそもピクニックに行くって、言い出しっぺは君じゃないか。なのに弁当もほとんど僕らが作ったんだぞ。荷物持ちくらい平等にやるべきだ」
「なによ、案外乗り気だったくせに!大体ほかにどう――」
言い合いが激しくなりかけた所で、二人がはっと息を呑む。そのまま慌てたように、シンクロした動きでこちらをばっと向いた。
「……途中でやめるなんて珍しいね」
「いえ、まぁ……私達もう大人なの。喧嘩なんて三十秒もあれば楽勝だわ」
「おい、言ってることが滅茶苦茶だぞ。でも今回はほら、これからピクニックだし。お互い楽しみたいからね」
「そうそう、そういう事」
それから、私が持つ、いややっぱりいいよ、などバスケットを二人で取り合い、結局は二つの持ち手をそれぞれ片方ずつ持つことにしたらしい。なんだかんだと仲のいいことだ。
森を抜けるとその先に緑の傾斜が見えた。なだらかに隆起した草原、伝令の言っていた小高い丘で間違いない。頂上まで登る頃には三人とも息がすっかり荒くなってしまったが、遠く地平を見下ろせば小さく感嘆がこぼれた。
「見て、村があんなに小さいわ」
「残念だけど湖はやっぱり見えないね」
「うん。……あれ、村から誰か出て行く」
村の方角に目を凝らすと、豆粒の様な馬車が走り出したところだった。よくは見えないが、幌に縫い付けられた印の色からして南の村の商人たちだろう。
「あー、そうね、今日来てたみたいね」
「出掛けてよかったの?村で市でもやっていたんじゃ……」
二人に問いかけると、どちらもバツが悪そうに視線を逸らす。
「……取り敢えず、お昼にしない?シートを広げよう」
◇◇◇
「商隊が来るって、今朝聞いたの。でもあなたが遊びに来ることになっていたから……」
「あまり面白い話じゃないけどさ、そうするとちょっと厄介だったんだ」
昼食のサンドイッチを頬張りながら、二人の話を聞く。南の村から商人たちが来ると、村の広場に様々な出店ができる。僕も何度か覗きに行ったことがあるが、その時は特に問題なかったと思う。はて、商人たちと僕が居合わせると何が厄介なのだろう。
「あの花畑ね、私達はあなた達に色々助けてもらっているからいいんだけど」
「よその人からすると、なんというか……気味の悪い場所らしいんだよね」
「年中あれだけの花が咲く場所は、珍しいから。不思議に思うのは仕方がないわ」
「それだけなら良かったんだけど、前の市が終わった後、花畑にも住人が居るって知られちゃって」
「誰がそうとは、分かっていないと思うの。だから本当は市に行っても大丈夫だろうけど――」
念の為、花畑を不審に思う商人と僕を引き合わせないようにしたらしい。
「その為のピクニック?」
「そうね、どうしようか悩んでて、土壇場で決めたんだけど」
「僕は悪くない案だったと思うよ。急ごしらえでも、こいつにしてはよく考えた方だと思うんだ」
「なんで上から目線なのよ!」
少女の強引な提案の割に少年が大人しくついていったのは、そう言う理由だったそうだ。
昔、僕ら花畑の住人はごくありふれたヒトだった。そして今もそうである筈だ。僕らは目の前の少年少女や南の商人と同じ、新世界の人間になったのだから。
だとしても不可解な存在に抵抗を示すのは避けられない事だ。世界が色を変えても不変を保つ花畑を怪しく感じるのは当然だろうし、そこに属する住人もまた疑われても仕方がない。
「でも心配しないで。村の人達もあなた達を危険な目になんて合わせたくないもの」
「長が適当にごまかしておくって言ってたからさ。次からは気兼ねなく市に行けるよ」
「大丈夫、そんなに気にしてない。でもありがとう」
お礼を言えば、二人とも照れ臭そうにサンドイッチにぱくついた。
助けてあげてなんて言われたけれど、僕もこの子達に助けられている。
◇◇◇
村へ帰る頃には、空はすっかり朱に染まっていた。折角だから夕食もどうかと誘われ、少女の家に少年と共に恐縮しながら上がり込む。しかし食卓には彼女の一家で食べるより遥かに多い料理が既に並べられていて、少女がふふん、と得意げにふんぞり返った。
四.秋の終わり、浅い夢
「それじゃあハナモリくん……じゃなかった、□□□くん」
「別にハナモリでもいいのに」
「時代遅れだわ。で、本当に留守番でいいのね?」
「うん」
「シアのことよろしくね。あの子すぐご飯とか忘れるから……」
「分かってる。二人も元気で」
「ええ。また春にね」
手を振れば姉妹は荷物を持って村へと歩き出した。その場で暫く二人の背を見ていると、ひゅうっと冷たい風が吹き抜ける。
花畑の外では色付いた木々から葉が落ちた。もうすぐ冬がやってくる。
家の前まで戻ると、真っ白な服をまとった人物がドアの脇に座り込んでいた。髪まで白いその人を、雪に喩えるにはまだ早い。
「もう二人とも行っちゃったよ」
「今起きた……。起こしてくれればいいのに」
「自分で起きたい時しか起きないじゃないか」
「頑張れば起きたかも。……あとお腹空いてここまでしか来れなかった」
「はいはい。中に入って、朝ごはんにしよう」
そう告げてドアノブを捻る。かつて蛇だった人も二本の脚で立ち上がり、僕の後をついて家に入る。これから来る冬の間、花畑には僕とこのシアの二人きりだ。
◇◇◇
「ハナモリ君も村で過ごせばいいのに」
トーストを齧りながらシアが言う。
一見すると常春のように花が咲き乱れ続ける花畑だが、覆う空模様は一定ではない。雨も降れば雪も降る、季節に合わせて気温だって変わる。それでも花が枯れないから花畑は異常なのだが、それはつまり、そこに住む人はやはり冬には寒さに凍えるという事だ。
昔はどうだったろう、季節感なんて無かった気がする。今も昔も、いくら雪が降ろうと積もりはしないが、それでも以前より外との隔たりが曖昧になったのかもしれない。
ともかくそんな訳で、僕らも年によっては村の空き家を借りて冬をやり過ごすようになった。花しかない花畑よりもあちらの方が暖をとりやすいのだ。
「シアこそ良かったの?いつもこっちで過ごすけど」
「ケヴィンの船があれば十分だから。でもハナモリ君は、今年なんて特に村の方が心配だったでしょ」
「そうだけど、流石に冬の間には戻って来ないよ。だからこっちでいい」
結局、調査隊は冬の前に帰っては来なかった。これからはもっと雪も寒さも酷くなり、旅は険しさを増す。彼らは冬を何処かで耐えてくるだろう。
シアに言われた通り、心配が無いわけではなかった。伝令役が戻ってから既にひとつ季節が過ぎてしまっている。行ける限り遠くを目指しているのかもしれないが、本来想定されていなかった旅路だ。拠点を見つけたと言えど、その後なんらかのトラブルに見舞われていてもおかしくはない。
「ねぇシア、世界はどうしてこんなにも広くなってしまったんだろう。昔は湖なんてすぐそこだったのに」
と、つい溜息混じりにぼやけばシアがうーむと唸った。
「ボクからすれば“元に戻った”と言いたいところだよ。世界は本来とても広くて、人の足で遠くへ行くのは難しい事なんだ。だから昔の人は乗り物を沢山考えたし、ボクらはあんな船で飛び立った」
「新しくなったんじゃなくて元に戻ったのか」
「世界を変えたのは昔しか知らない姉さんだから……。それに姉さん、研究所の外は子供の頃にしか見てないと思うんだよね。子どもにとっての世界って、今のボクらが想像するよりもっと広いでしょ。だから、実際の昔よりちょっと“間延び”すらしているかもね」
「そうか……。なんだか森も大きくなったと思ったんだ。そういう事か」
「正直、姉さんにそこまでの力が有るとは思ってなかった。ボクらの力は植物を育てると言われていたけれど、それは本質でなかったんだろうね。きっと世界の在り方に触れるようなものだった」
トーストを食べ終わり、カップの中身を見つめるシアはどこか遠い目をしている。多分、未来に希望を見ている眼差しではないだろう。
「……今でも時々思うんだ。僕のしたことは間違ってなかったか。村の人達と居ると、そんな風にはもう考えたくないと思うのに」
「ボクの前でならいくらでも悩むといいよ。時代遅れの自覚はある」
「本当はさっき、話聞いてた?」
「それは内緒。でもボクが新しい人達に馴染んでいないのは確かだよ」
次の言葉にうっ、と詰まる。彼女が積極的に新しい人々と関わらないのは確かなことで、そして僕にとってはそれが何故なのか、追及しにくいことでもあった。
そんな僕を見てクスクスとシアが意地悪そうに笑った。出会ってから時を経て打ち解けた彼女は、たまにこうしてからかうように笑う。
「……気にしなくても、ボクは君の選択を責めたりなんかしないよ。そもそも、君とお祖父さんに頼んだのはボクだったじゃない」
「でも、今みたいになるとは思ってなかったんでしょ」
「そんなの誰にも分からなかったよ」
「僕だって……皆に消えてほしくはなかったんだ……」
「そうだね。新しい出会いがあったって、寂しいものは寂しい……」
二人のカップはどちらも空になり冷えかけていた。それはまたお茶を注げば、たちまち温かくなるだろう。僕の心もこのカップと同じだと、昔なら思えただろうか。
俯いていると、シアがまた口を開く。
「これから冬がやってくる。冬の間は村の人もそんなに来ないし、周りもしんと静かになる。冬は眠りの季節なんだ」
「余計に寂しくなるじゃないか……」
「そうかもね。まるで時が止まったみたいに、世界に少しだけ置いてかれる……。でもそんな時くらいはさ、むしろちょっとだけ、過去に手を伸ばしてもいいんじゃないかな」
「過去に?」
「そう。一年のうちの少しくらい、昔を懐かしんだって悪くはないでしょ」
◇◇◇
もうすぐ冬がやってくる。そうしたらこの世界には僕ら二人きりだ。
帰ってこない調査隊、花畑を訝しむ南の商人。今が少しだけ遠くなって、昔へとほんの僅かに近づく。そして懐かしい夢を見る。
それはおよそ建設的ではない。だが仕方がないのだ。凍えた外の世界は、僕の手ではどうしようもない。
だから――自分に言い聞かせる。春になったら、また今を生きるから。せめて冬の間だけでも。
微睡みながら、君達の事を思いたい。
五.そしてまた、目覚めの季節がやってくる
「……それで、雪の上を歩いてきたって?」
「案外どうにかなるものだね。あれは最高の発明だったよ」
何事もないような顔で、友人はお茶を啜る。こちらの心配など気にも留めていないその様子に、思わず向かいの椅子を蹴った。
◇◇◇
雪解け水が小さな川を造り始めた頃。意外にも、調査隊が銀世界の中から帰って来た。彼らは春を待たず村に向かって進み続けたそうだ。
無謀な事をと眉をひそめれば、友人曰く雪は積もったが寒さは例年ほどでなく、また靴底に木の皮をくくりつけると雪の上でも歩いてこられたという。恐らくスキー板という物と同じ原理だろう。祖父の昔話を久々に思い出した。
「心配をかけたのは悪かったよ。湖の周りは過ごしやすかったけれど、僕らにも流石に焦りが出てきてさ。なるべく早く帰ろうって急いだんだ」
「調子に乗って遠くへ行こうとするからだよ。……それで、面白いものは見つかったの?」
途端、友人は目を輝かせる。
「それはもう、見たことのないものばかりだったよ!北は砂だらけだったし、南にはとても渡れそうにない広い川があった。古い集落の跡地もあって、それに東には――」
「東には?」
はっと、一旦間を置いた彼に続きを促す。彼は感慨深そうに――けれども興奮を鎮めるようにゆっくりと――言葉を継いでいく。
「不思議な建物があったんだ。中はどこからか生えてきた植物が茂って、あまり調べられなかったけれど……。知らない文字があちこちに書かれていた」
それは、あの東の遺跡の事だろうな――と、当時の光景を頭に浮かべる。丈夫そうな建物だったから、今も変わらず東の地にそびえ立っていたのだろう。
しかし、遺跡の話をすると彼はどこかそわそわもじもじとして落ち着かない。彼の地で何かあったのかと問えば、それは違うと首を振った。
「昔、□□□さんが僕らに読んでくれた絵本、覚えてる?」
「ああ、それなら……」
まだ村が出来たばかりの頃。暇を持て余した子供達がよく遊びに来たものだから、本を読み聞かせてやった事があった。
僕の読んでやれる本は祖父が残した僅かな蔵書と、シアが見せてくれた船長室の書物だけだった。だがそれらは全く子供向けでなく、彼らの食い付きが悪かった。そこでふと思い立って、絵本を作ってみる事にしたのだ。
その絵本は、僕の旅の経験を下地にして作った。気恥ずかしさはあったが、僕に描ける物語はそれくらいしかなかったので仕方がない。幸い子供達には好評で、何度か役には立ってくれた。
「東に湖があるって聞いて、あの絵本の通りだってわくわくしたんだ。花畑があって森があって、その先に湖がある。なら東の果てには本当に女神の城があるんじゃないかって。子供みたいだけどさ……。だから調査隊には無理を言って、東にも足を伸ばしてもらったんだ」
思い返せば、子供達にはあの本が実話を元にしているとは話さなかった。信じてはもらえないだろうからと。
「そんなことを確かめる為に?」
「そんなことじゃないさ。他の人を巻き込んだのは悪かったけど、僕にとっては大事なことだった」
だって、と彼が真っ直ぐ僕を見る。
「前からの夢だったんだ。いつか、あの絵本の少年みたいに旅をしてみたかった。それで彼と同じ道を辿ってみたかったんだ。嘘でも本当でも、ずっと憧れていたんだよ」
流石に女神様はいなかったけどね。そう言うと友人は照れ臭そうに笑った。
◇◇◇
それから、旅の土産話や村での出来事を話し合った。どうやら南の商隊については村長が上手く言いくるめてくれたようで、今度市に行くと何でも値引きしてもらえるらしい。どんな風に言ったのか次会ったときに問い質した方が良さそうだ。
それと友人の妹も皆とピクニックに行きたいと駄々をこねているようで――大人っぽくなりたいとはなんだったのか――雪が完全に解けたら、またあの丘を登ることになりそうだ。前よりも大人数で。
冬の間、こちらはどうしていたのかと聞かれれば素直に寝ていたと答え、盛大に引かれた。寒かったので仕方がないと思う。
そんなことを話し続けて、気が付けば空に茜が差していた。友人が帰り支度を始め、僕も茶器を片付ける。見送りの最中、友人が思い出したように言った。
「そうだ、お礼を言わないと。下の子達のこと、お願い聞いてくれたみたいで」
なんだっけと思えば、旅立ちの前にそんなことを頼まれたのだった。
「別に普段通りだったから。気にしないで」
「ならいいんだけど……。思えば、僕も含めて出会ったときから沢山お世話になってるからさ――」
「から?」
「いつもありがとう。……たまにはちゃんと言わないとね」
それじゃあまたね、と言い逃げるように友人は帰っていった。
後に残された僕は、去っていく背中をしばし見送る。近頃は日も長くなり、服も幾分身軽になった。それでも思わずくしゃみが出て、いそいそと家に戻る。
もう少し暖かくなったら、村へ行っても良さそうだ。そうしたらピクニックの予定を皆で立てよう。たまにはシアを誘ってみてもいいかもしれない。美味しいお弁当は絶対に必要だ。
春になったら、他には――。考える内、頬が自然と緩む。冬の間は長い夢を見ていたようでも、新しい季節が来ればこんなものだ。変わり身の早い自分に苦笑がこぼれる。
だがいつまで経っても寝ていたら、友人には呆れられるし、その妹には叩き起こされる。少年少女の喧嘩の声は目覚ましがわりだ。僕は少しだけ夢を惜しみながら、のそりとベッドを出ていくしかない。
いずれまた、あの夢に逢える日をそっと待ちながら――僕は世界に解けていく。
(了)